前にサンソン・フランソワの演奏が爆速だと書きましたが、クラウディオ・アラウの演奏のゆっくりさ加減もYouTubeから参照しました。楽譜の冒頭には「Allegro assai, quasi presto」と書かれています。「きわめて快速に、あたかもPresto(急速に)のように」という意味ですから、アラウの演奏はそうは聴こえません。ではフランソワはどうか?これこそPrestoですね。ショパンが何故にPrestoと直截に書かなかったのか考えてみますと、私にはアラウは遅く、フランソワは速すぎるように聴こえます。
しかしどちらも名ピアニスト。高い評価を受けています。このあたりも音楽の面白いところでしょうね。作曲と演奏があって初めて成立する、絵画などとはまた違った芸術の形でしょう。ですからテンポはそこそこにしておいて…。
以前にも掲載した冒頭部分の楽譜です。
一小節ごとにクレッシェンドが書いてあるところがミソです。この後もクレッシェンドとデクレッシェンドの連続です。それに合わせて弾いてみるとどうなるでしょうか?
前回「ラ・カンパネラ」で、自分で思っているほど抑揚がついては聴こえないことがある、と書きましたが、それを地でいっています。自分ではわざと大げさにしているつもりなのですが。ほとんど抑揚を感じられませんでしょう?
さすがにフランソワなどはどんなに速く弾いても、かすかな弱音もしっかりと出ています。では楽譜に徹頭徹尾、忠実かというとそういうわけでもないようです。特にも冒頭の一小節目と二小節目のクレッシェンドはコルトー先生などでもあまり感じられません。むしろコルトーの演奏では、一小節目はデクレッシェンドしているように聴こえます。二小節目はクレッシェンドがはっきりわかります。
これはやはり「即興曲」=「軽めの曲」=「自由な解釈が可能な曲」とでも考えるべきなのでしょうか?もちろんどんなピアノ曲でも奏者によって大きく印象は異なります。テンポや強弱だけ取ってみてもそうです。ここから先を考えていくと、音楽という芸術の特殊性に踏み込んで行くことになるのでやめますが。絵画や陶芸などの場合は、展示や光の当たり具合、展示場所などの影響があるものの、そう大きな違いは生まれないと思うのです。
どんなに素晴らしい音楽も、それを巧みに演奏することのできる奏者が必要ですし、どんなにテクニックや表現力に秀でた演奏家になったとしても、名曲がなければ始まりません。そして今は作曲者と演奏者が語り合う機会は非常に限られていると言わざるを得ません。一人の作曲家と語り合うためには残された様々な曲について学び、時代背景、人間関係なども知ることが必要になるでしょう。
私はある意味勝手な演奏を許されている身だと思っています。それで生活しているわけではありませんし。ただ少なくとも作品に対する敬意は持っていないといけないなと考えます。それが、どんな演奏をしたいのか…の道標になると思うのです。